こんにちは。
尼崎で東洋医学南整体院をやっている
南です。
本日は、とっても強力な瞑想の法のご紹介です。
最近では、ヨーガのブームもあって瞑想の本がたくさん出てきています。
マインドフルネスなど瞑想に興味がない人も聞いたことがあるかもしれません。
その中で、瞑想について、興味がある、やってみたい、やったことがるが
何かまた違うやり方をやってみたい方が対象です。
その瞑想の方法のことを【瑜伽修習道】と言います。
この瞑想法は、八世紀インドのナーランダ寺の学僧ジュニャーナガルバの論書の
1つです。
瑜伽とはヨーガであり、ヨーガとは、繋がるという意味があります。
では何と繋がるのかといえば、菩提です。
自己の心が菩提の性であることを
観想し、菩提心繋がります。。
菩提とは、悟りののことをいいます。
やり方のみをひたすら書いていきます。
具体的には、意味が深いのですが、
そこまで書くと量の関係上不可能なので
ご了承下さい。
それでは、始めましょう。
瑜伽修習道
聖文殊師利に礼拝します。
多くの苦しみに捉えられ、愚痴に混迷している衆生に対して悲(の心)を起こし、
「私は果である一切智を得て、諸衆生をもまた(一切智)位に安立させよう」と、
無上正等菩提に誓願をたてる。
心の無自性の修習
そこで菩提の相なる心は清淨ならざるもとすべきではない。
(『大日経』「住心品」の経文にも)次のように、
「菩提は自己の心に求められるべきである」
と説かれているから、まず自心(svacitta)をこそ考察すべきである。
ここで「自心」とは、聖教(『大日経』外篇「如来出生曼荼羅加持品」)
に説かれた5つの句(すなわち)、
①「あらゆる存在より離れ」と、
②「薀・界・処や、所取とを捨て」と、
③「法無我で平等であり方をしているので」と、
④「自心は本来不生であり」と、
⑤「空性を自性とする」と、
等と、証得すべきである。
その中、「あらゆる存在より離れ」(sarvabhāvavigatam)とは、外教徒が
持つような過去によって分別された「我(ātman)」などの常住な存在(bhāva)
を離れること。
※ここでの存在は(bhāva)は起源があるもの。
「薀・界・処や、所取・能取とを捨て」(skandhadhātvāyatanagrāhyagrāhakavarjitam)とは、
声聞などの理趣(naya仕方)によって遍計さrた性である眼(耳・鼻・・・)の6処と、所取
たる色(声・香・・・)等の六境を離れるという意味。極微(分割不可能な最小の物質的構成要素)
は、否定されるからである。
それゆえに第三の句「法無我で平等のあり方しているので」(dharmanairātmyasamatā)が説かれる。
唯識の理趣に入るためである。
こうして第四の句「自心は本来不生であり」(svacittam ādyanutpannam)が説かれる。
従って、それは縁によって生じるから幻のようである。縁によって生まれずに、自性より
退転しないものは自性とされる。そこで無自性であることから「自心は本来不生であり」
と言われる。
縁起の自性(という点)において世俗であるから、「幻と等しい」ということも真実ではない。
従って、勝義としては「空性を自性とする」という第五句が説かれる。世俗において施設された
所取と能取の相である諸法は、勝義としては無我にして本不生であるからである。
無に四種ある(すなわち)
①従前無(prāgabhāva),始めから無いこと、
②壊後無(pradhavam.sābhāva),破壊したことによる無いこと、
③一上無(itaretarābhāva),瓶は布でないようなこと、
④永無(atyantābahāva)絶対にないこと。
とであるが、(bhāva)に依止して安立するので、断ではない。
空性もまた法によるからである。
法がなければそれに対する一切の分別は生じないから、一切の
妄分別は滅尽し、無分別・清淨となるであろう。その故に、
自心が空性であるように、一切の存在もまたそのように(空性)
なのである。
「入・住・起の三心」
そのように、宿植(しゅくじき=前世に善根を植えること)の誓願の菩提心が
勝義行の相と般若とに相応するのは「入心」といわれる。
すなわち真実に入る方便であるからである。
他のいかなる行によっても発起しない心は、一切法の空性を証得し、
清浄であり、如実に知る性であるから菩提心といわれる。
菩提の相なる心(bodhinimittacitta)は菩提心とされるから、
それと相応する般若も般若波羅蜜とされる。
また【解深密経(マイトレーヤ章)】に、
「真実は止(シャマタ)と観(ヴィパッサナー)」とされ、
称賛されている。そこで止と相応する観は止観{双運}であり、
止のみでは心一向性である。菩提の相の心は空性の義と
するべきである。他の書等では、「住心(じゅうしん)」
と称される。すなわち「住」とは空性において心を
動じないことである。それに相応する心が「住心」と
される。その空性を開示するために信解し、[止・観によって]
真実性を作意するとされるべきである。
そこでまた、惛沈(こんじん=middha沈みこみ)と
掉挙(じょうこ=auddhatya高ぶり)の二つの過失を離れるべきである。
およそ昏沈(こんじん)の暗に打ち負かされ、所縁(対象)
より退く心が生じるときは、法(dharuma)を行じる特相の観の心を
讃嘆して、空性に等入(samāhita)すべきである。また、
逆に諸境を分別する掉挙(じょうこ)が起こった場合は、勝義を考察する
ことによってそこにおける所縁を捨てて、止に親近して住するべきである。
あまりに観じすぎて、知恵の分が増大しすぎた場合は、観の時ではなく止
[が修せられるべき]時であるから、時と非時に捨をなすべき
であると思い、止に住するべきである。また、寂静性を得て、そこに
執着することを捨てて、無頓着のみに住するべきである。
そうしたならば、いかなる力があろうと、いかようにあろうと、どれほどの
時間であろと、等入する。こうして順次自心を如実に了悟して、その心より
起つべきである。起つにあたっては次のごとく(思うべきである。
すなわち)たとえ、これら一切法は空であり虚空と等しい相であっても、
それらは幻や夢等と等しく、本初より以来、各々决定して因果の関係に
依存する因より顛倒の相として顕現するのである。
『入楞伽経』(ランカーヴァーターラ)にも、
これらの法は不生であり、
幻と陽炎と乾闥婆情(げんだつばじょう)と夢のごくであり、
变化と等しいのである。
と説かれているとおりである。
慈悲の修習
もろもろの生類の認識は、極めて大きな無知の闇に覆われているから、
このような存在のありようを証悟することなく、長夜に錯誤して
混迷・混乱していると心をめぐらして、悲をおこすべきである。
そして、それ故にこそ彼らが苦悩していると思惟し、それゆえ、自ら
このような存在の本来のあり方を彼ら自身に証解(しょうげ)させて、
あらゆる生類が証解(しょうげ)すべきであると思う。このように修習
すると、菩提への誓願心は浄められていくことになる。なぜなら、
あらゆる存在は夢のごとしという作意を忘れずに起つ時に、
生類の利益のために、菩提に住して、しかもいかなる法にも
執着を起こさないからである。これをここに「起行心」という。
そして、他の利益のための所縁を捉えることはあっても、
瑜伽行者は、あらゆる存在は夢のごとしという作意を決して
捨てることがあってはならない。従って、彼の心は
決して不善に入ることはない。また、彼は六趣を導き救うという
思念をもって留まるのであるから、もろもろの善に対しても、
その意向は三輪清淨の捉われのないものとするべきである。
※三輪清淨とは、お布施のときに、施す人と施しを受ける人と
施す物の三つの全てが清らかなこと。
また、慈・悲・喜・捨に住するにしても、常に同様に捉われなく
住するべきである。彼は、このようにまた、余すことなく
(衆生の)生存の全てありようを菩提に至らせるべき最上の
方便としての(自身の)菩提の境地は、福智の資糧を円満
せずしては得られない。そして、福徳と智慧との二種の資糧
とは六波羅蜜に収められる。というわけで、布施の波羅蜜から
始めて、すべての波羅蜜を常に円満しようと心がけて、各々の
六波羅蜜を(円満しようと)願うのである。
あるいはまた、次のように心を起こすべきである。布施波羅蜜に
三種ある。財施と無畏施と法施との区別によってである。このなか、
法施は未だ摂受されないもろもろの有情には施与することが
できないが、四種の摂受をもってすれば、これ(法施)は成就しえる。
だから布施・愛語・利行・同事によって生類を摂受するために、他の
4願(四摂事の願)を起こすべきであると発心する。三種の布施の中、
財と無畏との二布施は摂受の方便であり、法施はこの方便によって
成就されるものである。以上が、波羅蜜における六願
(六波羅蜜の願)と四摂事である。
※四摂事=四つの慈悲行。慈悲を修習し、慈悲の実践。
摂受とは、摂引受容で優しく相手に接し、穏やかに教え導くこと。
一、布施(ふせ)摂事。法をほどこす法施、物やお金をほどこす財施、安心をほどこす無畏施、などで衆生をみちびくこと。惜しみなくほどこすこと。
二、愛語(あいご)摂事。思いやりのある親愛の言葉で人々をみちびくこと。その言葉が愛語。
三、利行(りぎょう)摂事。他を先にし己を後にする利他行で衆生をみちびくこと。奉仕の心で人に接すること。
四、同事(どうじ)摂事。相手の立場に同化してみちびくこと。協力する心を忘れぬこと。
従って、まさに十誓願(六波羅蜜と四摂事の願い)をもって
大菩提への誓願心を荘厳し終わって、あらん限り能力と意願
とに従って利益を成就しようと、大勇猛を伴った心を持って
(禅定より)起つべきである。
[出定]
出定の仕方は以下の通り。両眼を開いて、以前の観察の状態を離れ、
眼前に見える現象する諸相を見るべきである。(禅定に入る)以前と
同様に、それらの眼前の現象を名称から始めて、分析的に範疇な
どを認識するべきである。舌を口蓋に向け入れ口の中で湿らし、
それから、以前と同じように呼吸を整えるべきである。それから、
ゆっくりと身体を動かし、結跏趺坐を解いて終わり、身心をほど
よくし、いかならものによっても混迷されることなく起つべきである。
起行して心をよく統一して、無執着の理趣に従って布施等の行を
行ずべきである。
次のように、「瑜伽の大自在者たる仏世尊は、結跏趺坐したまい、
三昧の境地に等入しておられても、六種の生存をご覧になって
おあられる」との思いを致すべきである。
以上です。
まとめ
本日は、仏教の瞑想【瑜伽修習道】の方法について
説明したました。
とっても難しいかったかもしれません。
ここからは、私の考えですが、
この方法は、悟りの心を何度も自分に
言い聞かせることになります。
仏教は、基本的には、神様の存在を
否定しています。
神様がいるのは、認めるが、
仏教はその上を
目指すという形になるかもしれません。
そういった取り組みで瞑想すると、非常に
難しくやっていても空虚なることが
多かったです。
何度、瞑想を行っても無気力なものと
なります。
所詮は、自分が作り出した、イメージであったり、
考えであったり、自分のカラを突き破ることが
できないからです。
この瞑想の中で、自分が知っている以上のことは、
少しも分からないからです。
自分が今知っている、あるいは考えている真理で
瞑想を行うことになります。
そうなるならば、
一即多、多即一を受け入れて
聖書で言えば、ヤハウェであり、
英語で言えば、I am that I am.
の存在を受け入れ、その存在の御心は
どんな思いなのかを探求する方法が
この菩提修習道であるのではないかと
考えて方がスムーズです。
例えると、好きな人は?
例えば、あなたに好きな人がいたとして
男性だとしたら女性であるかもしれませんし、
女性だと、男性なのかもしれません。
そこで、気になっていれば、調べるますよね。
どんな服装で、どんなことにこだわりがあって、
どんな本が好きで、スポーツは、趣味は?
どんな性格で、どんな生い立ちで、とか・・・
相手のことを知りたいと思います。
調べれば、調べるほど、どんなことを考えていて
どんなことを日頃から週間にしているなどが
わかってきます。
そうすると、どんなことをすれば、その人は
喜んでくれて、プレゼントや、服そうや、
どんなことをすれば、嫌がるのかわかってきます。
あなたも昔、あるいは、今でも
今、その好きな人はどんなことを考えているのかな
何をしているのかな、考えたことはないでしょうか?
こういった相手のことを深く理解しようとすることが、
瑜伽修習道です。
この仏教での相手は、仏の御心はについて考えています。
仏様はどんなことが、好きなのかな、嫌いなのかな?
仏様が喜ぶことすることが、修行でり、
仏様が嫌がることが、戒律になったりします。
瞑想とは、自分の考えで、やり方で行うものではなく、
相手への思いがあり、その相手がどんなことを
私に望んでいるのかなと、探求する方法と
言うことがわかってきます。
瞑想はもっと簡単に取り組めるようになります。
そのために自分を一瞬脇置く、自分を譲ることを
します。自己放棄、そうすれば、そうするほどに、
相手のことがと~ても理解ができます。
自分の考えや要求を押し付けたり、様々な思いを
もつほどに、相手の気持ちが理解でなくなります。
自己放棄は、手段であって、ゴールではありません。
参考までに!!
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