こんにちは。
尼崎で東洋医学南整体院をやっている
南です。
本日は、自分を責めるのは罪について
説明していきたいと思います。
この自己責任において
アメリカの霊能力者のエドガーケイシーの考え方を
もとづくものです。
よろしくお願いします。
人生いろいろと行きていると失敗や嫌なことが
あったりします。
そこで、自分なんかと自分自身を責めることが
あると思います。
自分なんか生きていても仕方がないとか
なんのために生きているのか?
そんな時に自然と自分を責めたりすることが
あったりします。
主の祈りを実践する中でいろいろな試練が
訪れます。
その中でしっかりと心に留めていおいて
いただければと思います。
最近では日本の若者の自殺者が増えている
何と先進国で15~34歳の死因が自殺です。
生きがいやの喪失や、自分への責めすぎて
が少なくとも関わっているのではないでしょうか?
そこで、エドガーケイシーの言葉から
少しでも参考になればと思います。
自分を責めてはなりません。自分を責めることは、人を責めるのと
同じほどの過失です。 (3292-1)
どうしたも、主の祈りを体に教え身につけるために
実践が必要です。実際に行動をしていく中で
磨かれていきます。
実践する中で自分を責めすぎていたなら、
無私の態度は法則にかなっています。しかし、自分を卑下「するのも、
一つの利己主義です。それは無私といえません。(2803-2)
自分を責めることが抜け出すことが
できたなら、主の祈りの中で再び大いなる神に同調しましょう。
自分を憐れんでも呪ってもなりません。自分のすることが最善をもたらすように、
生き、行動し、結果はすべての良き賜物を与えてくださる、神のてに委ねなさい。
(279-4)
主の祈りを実際の生活で職場で、家庭で実践する時に
うまくいかないこがたくさんあると思います。
結果は、神の手に委ねましょう。
自分ができることを精一杯やることで、
その嫌のあこと、失敗から、聖なる部分に
を見つけましょう。
必ず、苦しいや、嫌なことの中に
聖なる部分があります。
苦しみ、失敗は、飛躍できうるチャンスなのですから。
自己卑下は、利己主義でそれは罪ということを
説明しました。
最後に、インドの物語で何かを掴んでいただければ、
と思います。
自己卑下は利己主義である。
ある時、インドの神様であるクリシュナは、頭痛に苦しむ
振りをしていました。頭を暖かい布で包み、ベットの中で頭の痛みで
暴れまわっていました。
顔は青ざめ腫れ上がり、目は血走り、もうどうしようもない
振りをしていました。
クリシュナ神には数人の奥さんがいました。ルークミニ、サティアバーマ、
他の妃たちは、あらゆる薬をもってきましたが、少しもその薬は効果が
ありませんでした。
そこで、医者であるナラダにクリシュナ神を診てもらいました。医者である
ナラダはどう診ても頭痛の原因が分かりません。そこで、クリシュナ神にどう
すれば、その頭痛を治すことができますか、と聞きました。
やっと、そこでクリシュナ神の頭痛を治せる薬がわかったのです。クリシュナ神は、
神に帰依する信者の足の塵を持って来てほしいと言ったのです。医者のナラダは
信者のところへゆき、クリシュナの言葉を伝えました。
しかし、信者たちはあまりにも謙遜ぶかく、自分たちの足についた塵を
クリシュナに差し上げることを断りました。
これは、一種の利己主義だったのです。
「私は、いやしく些少で、役に立たず、貧しく、罪深く、劣った人間です。」と、
このように考えるの利己主義です。
「私が」という考えを捨てるならば、自分が人より優れているとも劣っているとも
感じません。医者であるナラダはがっかりして、クリシュナのもとに戻りました。
クリシュナ神にことの成り行きを説明し、頭痛の薬を手に入れることができなかった
事を伝えました。
クリシュナ神はそこで、尋ねました。「プリンダヴァンの(男尊女卑の社会で)牧女
(差別的に下み見られている人たち)たちに聞いてみたか?」
妃たちは、その言葉を聞いて笑い出しました。医者のナラダでさえ困っしまい、
クリシュナ神に尋ね返しました。「牧女たちにどうして神への帰依が理解
できるんですか?」
けれでも、医者のナラダは、ブリダヴァンへ行って足の塵をもらってきてくれと
言いつけられました。
牧女たちはクリシュナ神の病気を聞いて、自分たちの足の塵(チリ)が薬に
なるかもしれないと聞くと、何おためらいもなく足の塵をパタパタと
払い落とし、医者のナラダに渡しました。
医者のナラダがドワラカに戻ると、クリシュナ神の頭痛は治っていました。すべてはそれらは、自己卑下もまた利己主義であり、自分さえ良ければ
いいという執着なのです。
神の言いつけは信者は素直に守りましょうという教えのための、5日間の芝居
だったのです。
この話から多くのことが学ぶことができます。
信仰とな何か、信者とはどんな意味なのか?
機会を見ていずれ説明していきたいと思います。
どうも自分の中におおいなる自我と自我がある
ということが分かります。
世間でいいっている自我は、自我=エゴ
本当の自分は、真我=御霊です。
謙遜とは何を譲るのか?
エゴ(自我)を謙遜するのあって
真我を謙遜することは、自己卑下です。
謙譲語の使いかたはエゴを譲り、真我を
顕にして、神に使える時に使う言葉。
尊敬語とは、相手の中に自我の裏に
隠れている真我を見つけ、真我が行わる
動作などに使う言葉。
と理解することができます。
罪の意味もまた説明したいと思います。
主の祈りを実践するにあたって
どうしたも自己卑下をしがちです。
自己卑下は利己主義で罪であると
覚えていて下さい。
躓かないで、主の祈りをものにしましょう。
本日も最後までご覧いただきありがとうございました。
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